2025-10-31
小魚とカモメ
朝から曇天、北風3~4m、波はヒザサイズ、セット間長し。海に入って15分で早くも体が冷えてきた。でも海水はまだ暖かく、とても澄んでいるのが救いだ。暫く波待ちをしていると突然、私のすぐ目の前の海面が、まるで温泉が湧き出すかのようにボコボコと揺れ始めた。そして小魚が何匹も続けて飛び跳ねた。するとそこへ一匹のカモメが海面ギリギリを小魚に向かって飛んできて、すばやく捕らえた!と思いきや、何と空振り。そのカモメは近くのテトラポッドにとまると、一瞬私の方を見て、フンッとクールに横を向いた。失敗に照れているのか?そしてまたすぐに、私のボード近くで小魚が飛び始め、そのカモメが突進。今度はくちばしに一匹、捕まえられていた。カモメはテトラポッドに戻り魚をクイっと飲み込んだ後、私に向かってドヤ顔をした(ように見えた)。それにしても、私の至近距離で起こった弱肉強食の世界、もしかしたらこの辺りの魚やカモメは、サーファー慣れしているのだろうか?
2025-10-27
背慮
観光シーズンや秋の様々な行事、七五三などもあり、鎌倉市内を歩くと着物姿の方を特に良く見かける。レンタル着物は別として、お茶会に向かう方だろうか、季節の花を散らした帯をキリッと締めた後姿は、水盤に生けられた花のように美しい。世界には色々な民族衣装、伝統的な衣服があるけれど、着物の帯のように後ろにも心を配ったものは他にあるのだろうか?帯の柄をどう出すか、どう結んだら美しく、粋だろうか…。首をぐっと後ろへ回し、鏡に映し、何度もやり直していた母や祖母の姿は、何とも言えない色気が感じられた。背後を美しく整える…、それは日本人らしい控えめな美と細やかな精神の表れで、着物を着る事、帯を締める事を通して自然と、生活の中や周りの人への気遣いが生まれたと考えるのは、少々大袈裟だろうか? 逆に、帯を締める機会が減り、周りの人を慮る気持ち、例えば傘の先を後ろに向けて歩かないとか後ろを確認せず急に止まらないなど、そんな配慮が足りなくなった、なんて事はないのだろうか? 配慮の文字は、「背慮」と書き換えられそうだが、どうだろう。
2025-10-21
押す違い
自転車で買い物にでると、あいにく道路は渋滞。赤信号と道路工事が重なり全く進まない中、少し先の薬局の入り口に高齢の女性が立っているのが見えた。中に入ろうとしているのだろう。しかし何故か自動ドアーは開かない。その方は、ガラス扉に貼られたシール部分を、人差し指で何度もポンッポンッと押している。自動ドアーによくある、「押して下さい」と書かれた部分に手をかざしたり指で押すと開く、あのシールだ。しかし、何か違う。私のいる少し離れた道路から見ても、そのガラスに貼られているのは直径15㎝以上ある丸型。女性はそのシールの真ん中辺りをしきりに指で押し続けている。扉は開かない。私は、やっと動き出した車の横を抜けるように自転車を走らせたその時、気がついた。その扉は手動なのだ。ガラス扉の右端中央あたりには、確かに「押して下さい」と書かれた丸いシールがあるが、そこを掌でグッと押してドアーを開けて下さいと言う意味。「押す」違いをされ戸惑うその方には申し訳ないけれど、どこかチャーミングな勘違いを偶然目に出来て、私は嬉しく感じてしまった。
2025-10-14
秋の選択
八百屋さんに湘南で採れた栗が並んでいた。S,M,L,LLと粒の大きさごとに分けてネットに入っている。当然Sは粒が小さいけれど数は多く、LLは数はその半分くらいだが大粒だ。大きいほうが美味しいような気がするものの、欲深い私は数も食べたい。はて、どれを選ぶか?そこで店主の方に、粒の大小で味は違うのかと尋ねると、「かわらねぇよ〜、同じだぁね〜。大きいのは食べやすいわなぁ」だそう。それを聞いて、程よい大きさで数もあるMサイズを購入。しかし、LLの味が気になる…。私は果物や野菜を買う時に、数とサイズの選択に悩む事が多々ある。どちらがお得?大きさと味の関係は? 旬のさつまいもを買おうとした時も、どっしり大きめのものが2本の袋と、小さく細めが7~8本入りの袋があり、これまた決められない。細いさつまいもでも、実がしっかりとして味が濃いものはある。でも大きいものは食べ応えがあるし、旬を感じる。さて、ここに栗があります。味良し特大10個入り、味B級の中粒20個入り、味B級で小粒30個入り、どれを選びますか?
2025-10-06
Estados Unidos Mexicanos
ある旅雑誌がメキシコを特集していて、何故か興味をひかれ、手に取った。パラパラとめくってすぐに心に浮かんだのは、「なんて豊かなのだろう」。メキシコと言えば、貧困や麻薬、国境問題など、政治的経済的に常に課題を抱えている。それらを知っていながらも、写真に映る人々の暮らしや風景から、心の豊かさが伝わり羨ましく感じられた。メキシコの大自然や数多く残る遺跡からではなく、人々の生活の中に文化芸術があると感じられたからだ。普段着には手刺繍が施され、家の中には長年使い込まれたメキシコ民藝の焼き物や織り物、そして鮮やかな色に溢れ、音楽と踊りが欠かせない。言ってみれば生活そのものが民藝、と私には映った。実際に現地で暮らしてみればそんな生優しいものではないだろうし、これはほんの一部だろう。でも、身の回りには機械だけで作られたもの、人工素材だけのもの、自分は何も手を施していないものばかりの私には、やはり豊かに感じられる。