2021-08-31
Free
今年の元日の朝、右手中指の爪を強打し、全体が内出血、数週間後に爪がスッポリ剥がれてしまった。しかし人間の生命力とは凄いもので、半年程でほぼ爪は復活した。しかし中指が使えない生活は、思った以上に不便で不自由なものだった。 先日、パラリンピックの車椅子競技の選手がインタビューで、「自分達はコートが一番自由な場所なんだ。街の中や公道では、あんなに思いっきり走ったり、好きなように移動できないからね」と答えられていた。ユニバーサルデザインとかバリアフリーとか共生社会とか、言葉は広がりながらも、街を歩けば点字ブロックの上に自転車が置かれ、スロープの無い階段が多く、小さな段差はそこかしこにある。現実社会は、過酷な障害物レースのようか。自分の便利が誰かの不自由になっていないか、誰かの自由を奪っていないか…、私の気遣いなんて爪ほどの小ささかもしれないけれど、皆が気にしていけたら、自由はきっと広がる。
2021-08-20
命の学び
コロナ禍になるずっと前、ある魚市場に小学生が社会見学か遠足で訪れていた。市場の方が大きな魚を捌き始めると、隅にいた数人の男の子が、「くせ~!くっせ~!」と鼻をつまんだり、「キモチワル〜!」とおどけたりした。すると、さばいていらした方が魚から顔を上げて、「気持ち悪い、言うな!命だっ!」と、その子達に向かって放った。「命」。3人の子は勿論、他の生徒、そして私達買い物客も驚きと共に、大事な事に気がついたような、心が揺れ動いたような表情を浮かべた。人間にとっては食材だとしても、それは本来、生命、尊い命であり、プラスチックなわけはなく、内臓も血も匂いもあって当然なのだ。 教育の現場は大きく変化してしまったけれど、こんなふうに叱ってくれる大人、口うるさいオヤジさんの存在は、変わらないでほしい。
2021-08-13
走ることのについて読みたい時に私が読む本
今ランニングをしている私の前を、作家の村上春樹さんが走られている。日焼けした肌にハワイの太陽があたり、汗がチラチラと光っている。アラモアナ公園を吹き抜ける風は心地よい…だろうなぁ、きっと。こんな想像をしながら、現実は近所の見慣れた風景の中を一人でランニング。少し前から、村上春樹さんの「走ることについて語るときに僕が語ること」を読んでいる。そのカバー写真が、アラモアナ公園を走る村上春樹さんの後ろ姿、なのだ。村上春樹さんは、1982年の秋から日常的に走り始められたそうで、それからほぼ毎日、約1時間は走られて、国内外様々なマラソンレースにも出場されている。そのレースにむけての、まるで小説を書き上げるような綿密な計画内容や、日々のランニング、トレーニングの描写からは、哲学的と言おうか心理学的と言おうか、ストンと心に落ちるような言葉が、いくつも書かれている。また、走る時の伴奏音楽は、レッド・ホット・チリ・ペッパーズやベックなど主にロックだそうで、そんな音楽と走りながら見える街の風景が混じり合い、直ぐにでもランニングに出たくなる。
2021-08-06
日本の味
東京オリンピック出場選手が、日本の食の美味しさや充実ぶりに感激されているコメントを幾つも目にした。さて、海外から来られた方々に味わって頂きたい日本食として、私はぶぶ漬け、お茶漬けをあげたい。今なら、香り良く丁寧にいれたほうじ茶を冷やして、ご飯にかけ、昆布の佃煮を添えて。世界広しと言えど、お茶をご飯にかける食文化をもつ国は、他にあるのかしら? 昆布の佃煮は、鎌倉「宗達」の「黒松」といきたいところだが、数年前に閉店された。この黒松は、北海道尾札部産の天然白口浜真昆布を、長崎県産のスッポンで炊き上げた細切りの塩昆布。濃すぎず甘すぎず品の良い味付けで、噛む程にじんわりと昆布の旨味が染み出してくる。滋味、と言う文字が浮かぶ。宗達は、大阪で1781年創業の「神宗(かんそう)」が鎌倉に出されたお店で、神宗での黒松の取り扱いはないものの、ちりめん山椒や細切り昆布など味わい深い佃煮を主に販売、オンラインストアも開設されている。